豪華な家出の家と土地制度


 今年のエロゲー激戦区11月戦線開戦。一応買いますが、なかなか纏まった時間が取れなくてまだ『リトルバスターズ』プレイ中です。この3連休で、頑張って終わらしたいですね。

  • 一時的ではなかった?恭仁宮は平城京の8割規模

http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20071122i415.htm

 
 発掘調査によるとかなりの規模だったようですね。立地条件から恒久的な都を、作る意図がないのは明らかです。聖武天皇は、治世の後半うまくいかない現状から嫌気をして、たびたび平城京から遷都したのが、奈良の大仏とともに有名ですね。この恭仁宮や難波宮紫香楽宮などを造営しました。

http://homepage1.nifty.com/gyoudou/kikou4.htm
 
 
 その一環でこの規模だったのが驚き。
 遷都が人心と政治を一新する狙いもあります。代表的なものは、桓武天皇長岡京平安京の遷都で、強力になりつつ仏教勢力などから締め出す目的がありました。ですので現在の京都は、寺院のメッカですが、当初は都内には全くなく天皇が信任した空海の東寺があるだけでした。
 これから聖武天皇の意図は、恭仁宮を半恒久的な都にしようとしたのかもしれません。それでも聖武天皇は、大仏の造営など当時では政治の一部でしたが、その他は具体的な方策はないですね。あえて言えば墾田永年私財法ですが、土地制度では公地公民が原則の律令制から、荘園制の完全な移行に繋がりました。ただ墾田永年私財法の制定は743年(天平15)で、三世一身法の制定が723年(養老7)とわずか20年しか経ってなく三世代まだまだ先の話です。開墾した土地を3世代しか使えなく、勤労意欲が薄れるのはただの言い訳でしょう。藤原氏などの有力氏族がこれに関与したことが推定されます。
 これから本格的な荘園制度に・・・有力氏族や有力寺院の私有地になりました。経済的には土地開発の功がありましたが、その土地には税は取れません。税制的には失政です。果ては天皇家や国家機関や地方機関が荘園として、院宮領や国衙領を作る羽目にw
 

 公地公民制度は日本に合わず、また時代の流れとして仕方がない部分がありました。これから武士の発生や武家政治の開始の根本的な原因になりました。荘園制度は、摂関期から発展して行きました。荘園の乱立を防ぐため後三条天皇が、1069年に延久の荘園整理令を出すなど、しばしば荘園整理令などを出して荘園に歯止めをしようとしました。しかし、歴史の流れを食い止めることができませんでした。結局院政期でさらに発展して鎌倉前期で最盛期になりましたが、その後守護、地頭による荘園支配権の簒奪を受けて衰退し始めました。南北朝時代の混乱期を経て、室町時代守護大名の介入や村の自治(惣村)が出現し、荘園は緩やかに解体し始めていく。戦国時代の戦国大名は、守護大名以上に、地域支配を強めていて荘園の解体は決定的になる。そして豊臣秀吉による太閤検地が行われ、1つの土地に1人の耕作者のみ認めた点で荘園制度は終焉をとげた。
 荘園制度の意義としては、上記の内容と重なりますが、国家が税をかけられない点があります。それで国自体が荘園を運営をする事態になりました。だがそれで積極的に土地を開発して経済の開発に寄与しました。その中で自然発生的に武士が発生し、次第に土地制度の主役になっていきました。鎌倉幕府の成立の理由も自分が汗水たらして、開墾して耕している土地を自分の名義になれない不満から始まる。源頼朝は従属する御家人を地頭にして、実質的な領主としての地位を朝廷に公認させました。これが5世紀にわたる武家政治の発端になりました。
 そして忘れてならないのが、武士、地侍などの中間層の登場や商工業の発展になったことです。これが日本が経済発展した要因の1つでもあります。