物事は努力を捨てることにより解決する


 クリシュナムルティは、インド生まれの宗教的哲人、教育者。一般的な分類としては宗教家になるが、自ら宗教団体を解散し宗教批判を行った。思考の終焉や条件付けからの解放などを説いた彼の教えは、その現代的なアプローチから宗教界を超えた幅広い支持者を獲得した。
 20世紀最高の覚者の1人であるとする声が多く、タイム誌によりマザー・テレサらと共に現代の5大聖者に数えられた。


『「努力」とは自己中心的な活動である。自我を中心とした活動は闘争と混乱と悲惨を生み出すだけである。』


『虚偽を虚偽と見,虚偽の中に真実を見,そして真実を真実と見よ。』


『思考はそれ自身を変容できない,それ自身を秩序正しくさせることはできない。なぜなら思考は物質(matter)だから――思考は事物(thing)なのだ.物質が物質を知ることはできない。何が物質を超越しているのだろうか?その究極の根源はおそらく,精神の究極の根源と同じ未知なるものなのだ。』


『「神」を発見する旅に出る前に,まず自分自身を理解すること
....あなたは自分自身を知れば知るほど,はっきり物事が見えるようになってきます。自己認識には終わりというものがなく,目的を達することも,結論に達することもできないのです。それは果てしない河のようなものです。それを学び,その中に深く突き進むにつれて,あなたは心の平安を見出してゆきます。自らに課した自己修練によってではなく,自己認識を通して精神が静寂になったとき,そのときのみ,その静寂と沈黙の中から,真の実在というべきものが誕生しうるのです。またそのときにのみ,無上の至福と創造的行為が生まれます。このような理解も経験もなしに,ただ本を読んだり,講演を聞いたり,宣伝活動をしたりするのは,全く子供じみたことであり,たいして意味のない行為だと私には思えるのです。』


『実は「私」という存在は無であり,空虚な人間であるかもしれない………そうした不安や恐れを覆い隠すために私たちは何らかの信念にすがりつこうとする』


『何かになろうとする欲望,それを求める努力,競争心―――この精神の働きの全体が自我である。こうした精神の働きは,自己を他者から分離し,自分自身を隔離する』


『経験に基づいた行為とは,行為を制限するものであり,従って行為の障害になります。観念の結果ではない行為は自然で自発的なものであって,そのような場合には,経験に基づく思考の過程は行為を抑制していないのです。というのは,精神が行為を抑制しないとき,経験から独立した行為があるということなのです。理解というものが生まれるのはこういう状態のときに限られるのです。』


『また,恐怖は私がある特定の型の中に入りたいと思うときに生まれてきます。しかし恐怖を持たずに生きるということは,実は特定の型を持たずに生きることなのです。私が特定の生活様式を求めるとき,その様式そのものが恐怖の原因になるのです。ある一定の枠の中で生きようとする欲望こそ,元凶なのです。
それでは私はこの枠を破ることができないものでしょうか。私がその枠を破ることができるのは,次の真相を理解したときだけなのです。つまり,その枠が恐怖を生みだしているということ,そしてこの恐怖が逆にその枠を強化しているということです。
それではどうしたら恐怖を引き起こさずに,この枠を破ることができるでしょうか・・・私が何もせずに,ただその枠を見ているとき,どういうことが起こるでしょうか。そのとき私は,精神そのものが枠であり,型であるということが分かってくるのです。つまり精神は,自ら生みだした習慣的な型の中で生きているということなのです。精神が行うことはすべて,古い型を強化するか,あるいは新しい型を助長することなのです.従って恐怖を取り除くために精神がやることはすべて,恐怖を生みだす原因になるのです。』


『確かに,満ち足りて生きている人や,物事をあるがままに見て,自分の持っているものだけで満足している人は,混乱していないのです。それゆえ,人生の目的は何かなどと訊ねたりしないのです。その人にとって,生きること自体が初めてであり,同時に終わりなのです。あなたが人生の意味を問うとき,あなたは実際は逃避しているのであって,人生とは何かを理解しているのではありません.
 私たちの生活はなぜそれほど空虚なのでしょうか....その理由は,私たちが自分自身の内部を覗いたことがなく,私たち自身を理解していないからです。この人生が私たちの知っているすべてであり,従ってそれは十分に,完全に理解されなければならないということを,私たちはどうしても認めようとしないのです。
 私たちは自分自身から逃避する方が良いのです。私たちが自他の関係から離れて,人生の目的を求めるのはそのためです。』