地味な東照宮


 寒い雨の中、今日から始まった仙波東照宮の特別展に行ってきました。何やら川越城築城550年記念の一環だそうです。雨の中でも週末なせいか、喜多院は七五三の家族や観光客が多いですね。小江戸川越菊まつりも開催してますし・・・紋付袴姿の男の子は可愛かったですね。勝手知ったる喜多院。近所に祖母が勤めていた会社があったり、従姉妹の家がありましたので、子供の頃は遊び場でした。花見や初詣もあそこでやっていましたし・・・初詣では大宮の氷川神社に次ぎ県内2位の人手で大変ですね。最近は川越氷川神社に行ってますが、なんせ巫女さんがいますしw境内にある東照宮も数え切れないほど行ってます。途中にある池で遊んでいて、従姉を落としたりw


 仙波東照宮日光東照宮久能山東照宮と並び日本三大東照宮と称されています。日光の絢爛豪華さに比べ、地味ですがそれはそれで趣がありますね。普段閉まっている拝殿に入ってきました。さすがに本殿は公開されてませんでしたw数年前徳川宗家の徳川恒孝氏が参詣した時、行こう行こうと思っていきませんでしたので・・・


 重要文化財である仙波東照宮は日本三大東照宮のひとつといわれいるもので、ときの喜多院住職であった天海僧正徳川家康公を祀ったものである。
 家康公は、元和2年に(1616)75歳で生涯を閉じると、静岡県久能山にと葬れましたが、後に遺言により栃木県の日光に移葬されました。その途中に家康公の遺骸は川越の地に寄り、喜多院の大堂(薬師堂)において天海僧正らによる4日間に及ぶ法要が行われました。(この大堂は移築されて、今は上野寛永寺の本堂になっています)
 その後天海僧正は、家康公の像を作り、大堂に祀ったのがこの東照宮の初めとされています。
 また、天海僧正は、その東照宮を多くの者に崇拝してもらうため、現在地に丘陵を築き立派な社殿を造って、寛永10年(1633)に遷祀しました。この年、後水尾天皇からは「東照大権現」の勅額が下賜されています。
 ところが寛永15年(1638)の川越大火で東照宮は延焼してしまいます。
 これを聞いた三代将軍徳川家光公は直ちに再建を計り、ときの川越城主堀田加賀守正盛を造営奉行に命じ、天海僧正を導師として寛永(1640)に再建されたのが現在の東照宮社殿となっています。
 
 
 東照宮随身門(重要文化財
 随身門は朱塗八脚門、切妻造りで橡茸形銅版茸である。八脚門とは正面3間、側面2間の門で、門柱4本の前後に各1本づつ控柱を持つ屋根つき門のことである。
 今は弊殿奥に掲げられている後水尾天皇御宸筆になる「東照大権現」の額は、以前はこの随身門に掲げられていた。記録によると、この勅額は寛永10年(1633)12月24日とあるので、東照宮の創始の時期を知るひとつの資料になっている。


 東照宮石鳥居(重要文化財
 石鳥居は明神鳥居の様式をなすもので、寛永15年(1638)9月に造営奉行である、ときの川越藩主堀田加賀守正盛が奉納したもの。柱に「東照大権現御宝前 寛永十五年九月十七日 堀田加賀守従四位下藤原正盛」の銘文が刻まれている。 

 
 東照宮拝殿・弊殿(重要文化財
 拝殿は、桁行3間、梁間2間で単層入母屋造り、正面は向拝1間あって銅瓦茸である。
 弊殿は、桁行2間、梁間1間で、背面は入母屋造り、前面は拝殿に接続し、同じく銅瓦茸である。内部も朱塗りで美しく、正面に後水尾天皇の御宸筆になる「東照大権現」の勅額が懸けられている。記録によると寛永10(1633)12月24日とあって、東照宮創建時に下賜された貴重なものとされている。川越城主であった柳沢吉保や秋元但馬守喬知の頃に大修復があったと伝えられているが、松平大和守の弘化4年(1847)にも修復が行われたという。
 なお、拝殿には岩佐又兵衛勝以筆の三十六歌仙額が、また弊殿には岩槻藩主阿部対馬守重次が奉納した十二聡の鷹絵額がある。


 東照宮本殿(重要文化財
 本殿は、三間社流造り、銅版茸、極彩色である。本殿の創建は寛永10(1633)で、寛永15年(1633)大炎上し寛永17年(1640)に再建された。棟札によれば、「願主家光 奉行堀田正盛 大工木原義久 導師天海僧正」とある。
 本殿に安置されている宮殿(円形厨子)は、高さ2尺5寸ほどのものだが、この中に、元和3年(1617)東照宮創始のとき天海が彫刻した家康公の木造が祀られている。
 本殿に巡らす端垣は、延長30間の本瓦茸で透し塀、中央正面には唐門がある。この唐門は1間1戸の平唐門である。
 また、本殿の前には歴代藩主から奉献された大きな石灯籠が並んでいる。