感情と理知

 過去の日記を読むと我ながら、いけいけしゃあしゃあと偉そうなことを良く書けるもんだなと苦笑。勘の良い方は、解ると思いますが私の文章を分析すると、一見理知的で論理的に書いてるように、見えて激しい感情で書いています。あくまでも自分は「静かな水は深い」という例え通り、一見静かな水ですが底知れるほどの感情を持ち、自分の価値基準にしたがって主観的な生活してます。それだけでなく、まるで二重人格の人間のように、一方で物事を客観的にかつ多面的に見て判断している反対の面を持ってます。ですので微妙なバランスで後者を前者の補助として統合されていて、自分の主観性、独善性を極力抑えている次第です。


 前に書きましたかと思いますが、人間は文章タイプと会話タイプに別けられると考えています。文章タイプは、客観的に物事を捉え思考して順序良く自分の考えをまとめ文章にして広く人に、自分の考えを発表できます。自分の思考などを深め自分だけで考えを纏めることが可能です。哲学者とか作家とかに多いタイプでしょうか?
 一方会話タイプは、自分の考えを纏めのが苦手あるいは関心がない。主に人との会話とかで考えを深め、文章によってでなく人との会話や自分の行動によって自分の考えを示します。よって文章タイプより考えが広まる範囲が非常に狭いです。ですが、会話とかの手段の為感情的に、訴えることにより考えもそうですがその人間性に惹かれるの場合も少なくありません。
 これは宗教家に多いタイプですね。多くの宗教家は、著作をキリスト、孔子のように残さないか、残しても非常に難解です。親鸞といえば「歎異抄」を思い出しますが、あれは親鸞の死後弟子の唯円親鸞より直接聞いた話です。それに悪人正機説(善人も往生するのだから悪人も当然往生する)が非常に過激な為か秘本とされ、一般的に公開されるのは明治からです。自身は「教行信証」を書いてますが非常に難解ですね。むしろ筆まめとして弟子や信者に手紙を多く書いて、彼らの心を掴んでます。
 

 大体の人はその中間でバランスを取ってますが、私は典型的な会話タイプですね。文章を書いて人に伝えるより会話の方が、楽だし色々なことが解ります。人の顔を見ながら方がその人のことが解るし・・・顔色を見ながら少数の人間を感歎させるが得意です。文章を書く自体は嫌いではないですが、思うことがずらーと一瞬で浮かぶのでいちいち整理しながら書くので苦労して遅筆になります。まぁこれでも小学校の作文で苦労したほどではありませんがw