「自己表現」すること

 巷ではネット小説が流行っているそうです。自分もよく詳細は知りませんが、携帯等で既刊の小説を有料にてダウンロードして読む。素人が執筆した小説を読んだりするようです。前者は、活字離れが顕著な現在、小説を曲がりなりにも読むことは良いことだと思います。個人的な意見を言わせればパソコン、携帯の画面は情報を引き出すのは便利ですが、小説のようにじっくり読むようなものは疲れるじゃないかなと思います。それなら本を買って時間が空いた方が良いかと・・・なんせ携帯のメールの文字変換が面倒で一文で済ますような人間ですのでw私のように活字に慣れている人は少なくなりつつ、PCやメールで慣れている人間が多くなりつつあるのでその違いでしょう。また文庫本でも持ち運びにはかさばりますから、携帯なら便利です。
 

 ソフトウェアとしての小説は変わりませんが、ハードウェアとして活字から電子化に。時代の流れなので仕方がありませんが、日本語は縦書きに対応していてそちらの方が読み易いし、ページを捲っていく感触が好きな人間としては寂しい限りです。今電子図書館の構想などがありますが、そういう問題も解決させないとただ便利なだけでは難しいでしょう。最近気付いたことですが、電車内にて以前は本を読んでいるのを、結構見かけましたが少なくなりました。最近は携帯を弄くっているのが多い。時代の流れと言えばそうですし、実際ネットをしてから本を読む時間が減りました。まぁ、昔は活字中毒のように濫読してましたからねwさすがに会話するように周囲に迷惑をかけませんが、電磁波がペースメーカーに悪影響を与えるので控えろと言いたくなります。
 

 後者は、何となく予想していたことです。以前からアニメやゲームの二次創作でSSを書いてるのをよく見かけてましたから、オタク文化であったネットが一般に普及すれば必然だった思います。著者は、趣味として小説を書いて公開しているのか、本当に小説家を目指してそれが為されずに代償行為として公開してるのか。意図はまちまちかと思います。趣味としてならそれで良いし、習作として割り切っているのなら構いませんが本当に小説家になるつもりなら正統な手段を経て頑張るべきでしょう。これについては以前の日記に言及したことがあります。中には才能を見出されて作家になるケースもあるかもしれませんが、ネット上で無料公開したのをわざわざ単行本として金を出す人間がどれだけいるか?ネットから活字に移行したら、ファンは背信行為と思われても仕方がないでしょう。勿論応援してくれるファンも少なくないと思います。


 よく私は「文は人なり」という言葉を多用します。それは、その人が書こうとしているテーマ、内容、文章の組み立て、文体にてその人の性格がにじみ出てくるからです。文章は、こうして特別な物を利用しなくても書けます。それこそ文章を覚えたての子供でも。何の準備も要らない何時何処でも書ける汎用性がある。文章は簡単なようで非常に奥深い。書くテーマが決まっている小論文でも、書かせようとする「模範解答」は存在しますが、どうアプローチするかは自由。このように特にテーマが決まらなければ、その人がどのような物事に関心を示し書きたいのか解ります。大変自由度が高い中で選び取るのはその人の意思があります。そこには当然今まで積み上げた人生経験や性格、趣味、関心など、書き手の人間性そのものが出てくることだろうと考えてます。


 そして、インターネットが果たした役割、情報を得るまたは個人間のコミニュケーション手段としてのメール、チャットなどのツールの他に、最大の恩恵は不特定多数へ自分を表現するツールとしての役割が大きいです。今まではマスコミだけに握られてました。一個人が意見を言うにはそれこそ街宣車で意見をいうしかありませんでした。ネットの以前にはパソコン通信がありました。私は全然知りませんが、一種の閉鎖された中でのコミニティだったようです。またネットよりマナーが厳しく初心者には敷居が高かったようです。ですがネットの登場により、ホームページ作成により伝えたい内容のコンテンツを自由に作れたり、掲示板などで簡単に自分の意見を言えるようになったりしました。ですがHP作成には一定のPCの知識が必要だったり、その為のプログラムを手に入れて使いこなす必要がありました。ここ数年ブログの急速な普及により、HP作成よりも非常に簡単に意見などの自己表現を行えるようになりました。私もその恩恵を受けた1人です。私はかなりの独創的で自己主張が強い人間なので、知り合いからHPを開設してはと言われました。そしてHP作成を何度か試みましたが、興味などが散文傾向な自分には閲覧者を混乱させて、また寄せ集めのものになってしまう予感があったので断念しました。ですので日記のみにて表現するブログに至った訳です。
 

 よく小学校の宿題などで日記を課せられたりしました。ですが何を書いて良いのか困って無味無臭の日記を書いてました。それはある人には言わせれば私は「内界が豊富すぎて、また上手く言語化できない」とのこと。言われれば何かの感想文を書かさせると、色々と考えてしまい上手く意見を纏めることが難しいです。また赤の他人の担任に、自分のプライベートを書かなければならないという反発心があったのだろうと思います。
 そして日本は日記文化が非常に発達した文化圏でもあります。脈々と平安の昔から日記が書かれ、それが一級の歴史資料になったり、その人を研究するのに非常に貢献しています。日記は用途は自分のその時の心情を綴ったり、その時の記録として利用されます。基本的に自分用に書かれ(政治家などは後世に読まれるを意識して書かれている場合が多々あります)、記述の仕方も様々です。自分で解るようなメモ書きのものから文学的なものまで、金銭の出納などをこまめに書いたり、その日に起こった出来事への感想などと非常に多用な形で表現されてます。身分も公家や上級武士から、庶民に近い身分までまちまちです。そのような背景があるからこそネットから口コミで話題になったものが、本として刊行されたり、映像化されたりしたのでしょう。またアメリカではあるブログが世論を左右したりするものをあるそうです。


 このように日本人は自己に対する表現力はかなり豊富です。一方他者に自分の意見など自己を表現するのが、下手だったりします。それは場を見て察するが通例で自己主張をするのを、空気を読まないとして封殺していた日本の慣例にも一因があると思います。ですが国際化した現在日本社会と同じように、他国の機嫌を取るのが国際親善と信じて疑わない方が少なくありません。民族や宗教などが異なるので意見や慣習が異なるのは当然。それを尊重し、理解しようと努めるのは大切ですが、どうしても対決する場合は自国の主張を他国へ解りやすく発することは非常に大切です。主張しない、反論しないということは相手の言い分を全て受け入れたということです。これは「無条件降伏」したと同義です。どんな事をされても文句は言えない訳です。13世紀元に「無条件降伏」した高麗人が元寇の主力にされても文句は言えません。これは外交だけでなく個人にも言えることです。ネットの普及もあって自己表現の訓練できる場が出来ました。間違った感覚で使われているのも少なくありません。また自己主張しているようで結局は、自分で考えた答えでなく周囲に流されているだけなのも多いです。
 

 小学校で英語教育をしているようです。しかし国際化のためには英語よりも日本語で自分で考えた意見を書く、話す授業を取り入れたほうが数段有意義かと思います。「少年の主張」のような青臭い教科書的な現実味の薄い意見ではなく、地に足がついた意見ではないと国際的に馬鹿にされるだけです。英語の習得などは技術的な問題なのでしゃべれるのに越したことはありません。ただ、日本語ですら主張できないのに英語でなんて無理でしょう。