ひとのかたち

 人と同意語に人間があります。人と間。人と人の触れ合いによって、人の心の形が作り出されていく。それはまず両親であり家族、そして親戚や友達や先生など。そのような無数の人の触れ合いによって、自分が作り出された。勿論作り出されたと書くと、他動的ですが、両親や環境を選び出す事は出来ません。ただ、限られた中で選んだのは自分。
 影響を受けたからと言って、どう解釈して自分の形を作ったのも自分。よく環境は、どうこうとか言う人間がいます。しかし、そんな劣悪な環境から流されていく人もいれば、それを反面教師にして頑張っている人間もいます。環境がどうこうのとか他人がどうのこうのとか何かを理由を付けるのは、逃げだと考えています。
 当然幼児などには選択権はありませんし、それをするだけの能力も不足してます。ですのでそれは仕方がないことで同情すべき問題です。ただ判断能力がつき始めた、中高生にその甘えは通じないと思います。少し厳しい見方かもしれませんが、それなりに人生経験を積み、良い悪いの区別ぐらいは判断できる年頃です。劣悪な環境には同情しますが、悪事をはたらいたり、苛めで自殺したりする前にせめてキチンとしろとは言わない。ただ、少し落着いて周りを見渡して欲しい。誰もいないのなら誰でも良いからプライドを捨ててでも助けを、求めて欲しい。世間は厳しいかもしれないが、誰か話ぐらい聞いてくれる人間がいるかもしれない。そう信じて・・・
 
 少し話が逸れましたが、それだけ人との出会いは大切な物。自分だけの経験など一生かけてもたかがしれてます。様々な人間に出会い、その人の人生経験を聞いて、それをどう扱うかはその人次第。


「要は・・・受け止め方の問題さ。人が物事をどう受け止めるか・・・人生の大半は、それで決まることが多い」(『雨に歌う譚詩曲』より)

 
 自分の経験や他人からの経験談、忠告などどう受け止めるか。そのまま素通りすれば、ただの徒労に終わる事でしょう。だからと言ってポシティブシンキングが良いとは、必ずともいえない。自分の都合の解釈だけで、自分を偽る可能性もある。時には、物事を悲観的に考えるのも必要。要は物事を多角的に捉え、自分なりの答えを見つけていくそんなのが良いと思いますね。
 何も出会いは人との出会いだけではありません。物によって何かが変わったこともあります。これからシリーズでこれを語って行こうかと思っています。早速と思いましたが、長くなりましたので今日はこの辺で・・・
 ちなみに明日廃線ファンでは有名な、西武安比奈線を辿って行こうかと思っています。ちょうど紅葉の時期、落ち葉舞う林に線路が、表紙になるほど見事な光景なことでしょう。