こころのかたち

 以前の日記を読見返すと結構、青臭いと言うか説教臭いですねw
それだけ自分が歳を取った証拠でもあるし、あまり読者を意識せずに書いてますからそうなるのでしょうか。私は、基本的に男女問わずに、自分自身を持っている人物に、惹かれる傾向があるようです。それは、自分の意見と全く違っていても、向こうはどう考えているか解かりませんが、好意を抱きますね。
 人の数ほど意見はあるもの。こうして偉そうに書いてますが、私自身は一般常識に照らして、または理性で物事を見て考えて書いてます。それがその時の「自分自身の答え」であって、相手によっては違う事もあるでしょう。それがその方が自分自身で見出した答えだったら、そんな考えもあるんだとその意見を尊重します。あくまでも「自分自身の答え」であって、絶対正しいとは思っていません。それが世間一般に通用する考えではないかもしれない。そして、自分が間違えてるかもしれないし、時によって自分の考え自体が変わっていくかもしれない。それに自省心が強いので自分の意見も半信半疑でもあります。でも現時点で周りを見渡し観察して、周りに流されずに自分で考えて自分で生み出した答えなので誇りに思っています。例えそれが常識外で排斥されるものであっても、相手には胸を張って言えるつもりです。

 
 「常識」を疑い「理性」にて物事を考えること。「常識」を疑う事は、周りには孤立することなります。例えばガリレオ裁判の「それでも地球は動く!」の逸話のように、周りを敵を作ってでも自説を曲げない。それを耐える意志も時には必要ですね。一神教の教徒ならともかく多神教の教徒で、その強さは酷ではありますね。一神教なら創造主だけには解かってくださるという支えがありますが、多神教特に和を尊ぶ日本で孤立することは死よりも辛い場合があります。空気を読む能力が日本では必要ですね。

 
 周りと協調して、自分の意見を持たずに生きていくのも、その人の人生なので否定もしません。そちらの方が「利口」な生き方かもしれません。ただ、自分にはできそうもないですね。私は超個人主義な人間で自分は自分。他人は他人。かなり冷めた見方をしています。だが生来持っている優しさや世話好きな面で余計とも言えるアドバイス等はします。
 先日も妹のある件でそんなことがありました。妹も大人なので私は、わざと何も言わず見守っていたのですが、少し心配になってアドバイスしました。そしたら、自分でもヤバイと思ったのがすぐにそのアドバイスを実行しました。まぁ、世話好きで困っている人間をほっとけない面もあります。それが余計なお世話になり独善的にならないように自戒しています。