「言葉」の威力

 今回のゴーマニズム宣言も飛ばしてるな(苦笑
 
 加藤紘一衆議院議員の実家が放火された事件。全く興味ないので事件の概要や彼がその後の対応を知らなかったりします。彼にはとても同情します。ただ、厳しい事を言えば衆議院議員という自分の言動が注目され影響力もある人間には、他の国民よりも自分の言動に、責任を持ち注意を持つべきだと考えています。古今東西、世の中には暴力で他人の言動を封殺する人間、また暴力は使わずとも何らかの手段によって自分の言動を封殺することが社会正義と考えている人間が存在します。自分の言動がその輩がいることを自覚し、彼らに自分が狙われる可能性があると自覚しないといけないと思います。「言論の自由」とかの問題でなく人間社会に潜む暗部ですから・・・
 

 板垣退助が演説中に暴漢に襲われた時、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだ。このようなエピソードのように、自分の言動に自信を持ち、肝が据わった人間でないと社会的地位が高い人間は、やっていけないと自覚すべきだと考えています。尤もこのエピソードは、事実ではないらしいですが・・・ただ、彼は土佐藩の役人出身でいわゆる維新の志士では、ありませんですが、戊辰戦争の際に土佐藩を代表して指揮を担当したように修羅場を経た人間だからこそ言えた台詞かもしれません。ただ、人間生きていけば、修羅場を経験する事があるでしょう。その時にどのような対応を取ったか?それからどんなことを学んだか?がその人間の胆力を育てます。いざ何かあった時、その経験が生きることがある人間がいれば、傍から見て潔くない対応を見せてその人の本性を晒すことになります。よく釈明会見や謝罪会見て、人事ながらあちゃ〜と思うことがしばしばあります。勿論、組織のしがらみで言えなかったりするので同情すべき点もありますが、明らかに反感を買うような会見が多いですね。
 

 「言葉」というものは、たった一言で死の淵から救済されるほどのことや自分を正してくれるような魅力的な一面がある一方、昨今世間を賑わしてる苛めによる自殺のように、たった一言だけで人に到らしめる事ができます。そして、僅か一言で人間関係が円滑に行ったり、逆にその言葉を言ったばっかりに今までの人間関係をご破算にするほどの威力があります。カエサルが「文章は、用いる言葉の選択で決まる。日常使われない言葉や仲間内でしか通用しない表現は、船が暗礁を避けるのと同じで避けねばならない」と語っていますが、この事は文章に限らず平素、あるいは何かあった時に自分が発した言葉の選択肢にも通用すると考えています。
 

 私は両親特に父に、自分が話した内容には責任を持てと厳しく教育されてきました。日本の伝統的な考え方にも「武士に二言はない」という言葉があるように、言葉の大切さを知っていました。また、長くない人生。たった一言で人間関係がスムーズになったり、反対にその言葉を発したばかりに関係が修復不全になる光景を見たことが幾度もあります。たかが言葉。されど言葉。一度発した「言葉」は、弓で放った矢のように取り消しできません。
 
 そのような「言葉の大切」を知っているからか、平素冗談を言ったり馬鹿話をしますが、仕事や日常生活で大切な場面かなり無口になり言葉を選びながら話すようにしてます。ネット上でも同じように気を使っています。されど、なかなか難しいものですね。自分では何でもないことが他人の感情を刺激する事がある。あるいは他人にとっては、何でもないことが自分の感情を刺激することがある。人間には個性があり、今まで生きていた背景や考え方、物事の捉え方が異なります。それを考慮しながら距離感を保ちつつ接することは難しいの一言。それでもよほど関係が修復不全な事態ではない限り、相手に歩み寄ろうという姿勢があればその齟齬もコミュニケーションによって改善されると考えて生活してます。そんな考えを持ってないと人生やっていけないやw