「世界」

人は誰でも自分の認識を介在にして「世界」を知覚し、「自分の世界」としている。
認識の異なる他者は、例え同じ「世界」を知覚しても、「その人の世界」とは異なる。
だが人間は他者とコミュニケーションを取れる存在である。
話し合いなどのコミュニケーションを取ることにより、「他者の世界」に近づくことは可能である。
しかし認識が異なる「他者の世界」を完全に理解することは不可能といって言いだろう。
それは人として異なる個体に生まれてきた宿命である。
だが人は人を求める存在である。
認識が異なるからこそ惹かれあい、より他者を理解したいと望む。
また異なるこそ他者性によって「自分の世界」より広げることも可能であり、不幸にも意見の齟齬により衝突することも少なくない。
そして認識が異なる人が存在して多様性があるからこそ、「私たちの世界」は発展している。

 

 前に書いたかもしれませんが、私は難病の闘病や障害者、人の死などを扱ったドラマやドキュメントは大嫌いです。安易な同情を引いて視聴率を稼いだり、偽善的な製作者側の姿勢が見れ隠れするからです。障害者もただ1人の人間です。長所もあれば短所もあります。その人間性を無視して美化し神聖化することは、逆に障害者を特別視し無意識に健常者との壁を作ります。それは逆差別に繋がる恐れがあります。難病の方もお気の毒と思い同情します。
 ですが所詮人間は、必ず死ぬ宿命です。死は誰でも通過しなければならないことで、特別なことではありません。人間長く生きていれば、身近な人間が普通の病や事故でなくなる経験をします。そこにはそれぞれ様々なドラマがあることでしょう。それから得られることは、ドラマやドキュメントで得られることよりも大きいと思います。人間病気や怪我をすれば必死になって、治そうとするは当然。障害者でなくても生きていれば何らかの壁にぶつかります。その時必死になって乗り越えようとすることもあるでしょう。何も特別な病気、障害がなくても何らかのアクシデントにより、努力や周りの助けでそれに当たることは自然なことでしょう。難病や障害者なのにこんなに頑張っているんだ。だから健常者はもっと頑張れと説教して、感動させようとする製作者やそれに乗せられる視聴者に怒りすら感じます。自分には関係ないように高みに立って同情しているだけで、それから何かを得ようとする姿勢が全くありません。
 何も全てを否定している訳ではありません。様々な障害や難病と対峙する生き様は、見識を広げることもあることでしょう。同じ障害や病気を持つものにとっては、自分の病気を世間に知られる良い機会ですし、同じ境遇として勇気付けられることもあると思います。中には真摯に製作しているものもあるかと思います。非常にナーバスなテーマですから安易な気持ちで製作して欲しくないですね。嫌いなテーマである『加奈〜いもうと〜』に心を打たれたのも、知的ルートで死に対峙しながら色々と考えている様が良かったのでしょう。


 私には軽度の障害があるので余計そう思うのかもしれません。また父もそのような物が大嫌いなようです。おそらく自分とそう変わらない考えかと思います。父は網膜剥離を患っているのも影響しているかと思います。
 私は先天性外斜視といって、両眼視つまり両目で一編に物が見ることができません。その為両目で見れば多少の違いで形成する遠近感がなく立体視ができなく、一枚の絵のようにしか見えません。また目の焦点が合わなく、子供の頃よく何処見ているのとからかわれました。自分は生まれつきなので、「他人が見てる世界」など理解できずにただ言われるまま。何か障害があるらしくてそうなっているとは理解してましたが、他人が立体視しているとは夢にも思いませんでした。生まれつきなので自分が見ている「世界」が、正常で当たり前だと感じていました。遠近感がなく運動神経のない私は、野球などの球技は全くできず空振りの嵐。何故他人は簡単に打てるのか?捕球できるのか?疑問の嵐。(持久力だけはあったのでマラソン大会では、常に校内で10位以内には入ってましたが)ようやく立体視の概念が解ったのが、高校になってからですから生まれつきというのはそれだけ大きいのですね。


 斜視は、子供の3%がなると言われます。なかなか高い数字ですね。子供はそれが当たり前だと思っているので、親の観察力が大事になってます。まぁ3歳児検診とか定期検診で気付く場合が多いようです。大体6歳には立体視関連の機能が出来上がってしまうので、それ以前に治療し、手術すれば治すことは比較的簡単です。ただ子供に全身麻酔を施すので、危険性はあるのですが・・・反対にそれ以上の歳になると治すのが非常に困難になります。早期治療が鍵ですね。私の場合、大学病院に毎月通って3歳の時1回手術を受けました。入院していたことをおぼろげながら記憶にあります。本当は合計で4回する予定でしたが、幼稚園に通ったりとか色々あって受けなかったようです。
 小学校に入ると通院しなかったのですが、小6の時行って手術して半分の確立だと言われてやりませんでした。その後車の車の免許の所得の為に念のために通院しましたが、10年以上経つのに看護婦さんが覚えていたのが驚きでした。数千とかの患者を見ているのに・・・なんでも印象的だったとか。大人しい子供だったのに、やはり子供の時から他人と異なる印象を与えたようですね。診断結果は立体視は絶望的で見た目ならなら治せるとのこと。特に外見に拘らない人間なので手術は受けませんでした。大人になると私のように外見だけになることが多いようです。ただ斜視の人は、結構外見にコンプレックスを抱く人が多いので受ける方は少なくありません。私のように先天性の他に片目の視力低下により、なる方はいますね。それと有名人にも注意深く見るとこの人は斜視だなと感じる人は結構多いです。日常生活ですが、生まれつきなのであまり不便を感じません。ただ遠近感を使うことは、人より慎重に時間をかけて行ってます。


 私の好きなエロゲーの作品にも、障害を扱ったものがあります。ネタバレの為明言は避けますが、シナリオを書いたライターが気を使い悩んだそうですが、個人的には満足してます。障害により好きな物事の致命的なハンデになる。それでも前向きに好きなことに打ち込む姿勢は非常に共感しました。そのライターの真摯な描き方に、敬意を表します。彼女はエピソード部分である試みをします。またそれが良い。その部分を抜粋して終わりにしようとします。


「やっぱり君とかの目にはそう見えるんだ・・・でもね、私の目には全然違って見えるんだよ。」
「そう。私には君たちの色の世界の色合いがわからないけど、逆に君たちも私のたちの色彩はわからないのかもしれないね。」
「てことはその絵の本当の意味がわかるのは・・・」
「私たちと同じ世界に生きている人にしかわからない絵なのかもしれない。」
「単なる自己満足じゃないのかって言われたらそれまでなのかもしれないけどね。」
「自己満足でもいいじゃない。自分が描きたい物を描いた。ただそれだけの話なんだから。」