そうかもしれない、そうじゃないかもしれない(回顧録その1)

 回顧録第一弾・・・・・・・・・・・・・・
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ってちょうど一ヶ月前かよ!難産だったなぁ〜多分この次の『僕と、僕らの夏』は9月13日でしょうw
夏終わっているし


−−−もう、夏も終わりね。
……
−−−いろいろと、あったわね。
−−−随分、遠回りしてしまった。
……でも。
−−−もう一度、取り戻せるかもしれない。
もしかしたら、わたしも。


と半ば冗談は置いといて(半分は本気で危惧してますw)では本題に入ります


 ある日、ある記事が読売新聞に載った。岡崎律子さんの死亡記事であった。岡崎さんというと『フルーツバスケット』のアニメの歌を聞いて、何となく不思議な雰囲気な人だなと印象を持っただけでした。それだけに記事の扱いの大きさに少なからず驚いたのが事実です。その後、ネット上で彼女を惜しむ声の多さに改めて驚きました。彼女の文字通り遺作となった『シンフォニック=レイン』ちらほら高い評価を見かけました。ですが、そんな声の中でプレイをする機会を逸し、彼女が「神話」になる違和感を感じました。根っからの天邪鬼の私は、買ったけど臍を曲げてプレイしませんでした。そんな時でも評判は聞くのですが、プレイをする気が起きませんでした。そんな中あるレビューを切欠にやってみようかと思いプレイしました。
 

 プレイした感想は、非常に高い評価ながら殿堂入りするほどの評価を下しませんでした。それは何故かというと1つのことにやり遂げる気持ちが、関心が分散傾向にある自分にはよく解りませんでした。また、そのような青臭さがどうも性に合わなかったのが原因です。それが一転、評価が変わったのはファンディスクにあたる。『Digital Picture Collection』のショートストーリーとりわけ「いかさまコイン」が補助線になり、今まで鬱屈されたものが解明されこの作品の凄さ、深さに気付きました。そして、昨年プレイした作品の中で、一番好きで印象深い作品になりました。簡単な感想は過去の日記にあるのでそれを見て下さい。抽象論ばかりですが、ネタバレにこれほど気を使う作品はありませんね。
 改めて作品を眺めてみるとテーマは「若さがゆえの純粋な矛盾した感情のぶつかり合い」でしょうか?だれでも矛盾した感情は持っています。年を重ねたり社会経験を積むことにより、妥協したり矛盾した感情を趣味など他の形にて発散したりします。ですが学生の身で生活するのは小さな世界で、経験の少ないまま矛盾した感情に対峙することになります。若い上に妥協をせずに体当たりであたったり、器用に立ち振る舞ってもどこか無理があり、そこから穴の空いている水のバケツのように零れ落ちます。それに一生懸命そ対処するする姿が描かれてます。思いが純粋がゆえに、行動は独善的だったり、正面からぶつかり自らも傷ついたり、時に残酷だったりします。それは若いからできることなんですよね。その様を真摯に描いているので、結末はそんなに甘くありません。ほとんどのエンディングの後もやもやした気分になり、消化不良起こします。それは、主人公とヒロインとの距離感。そんなことで物語に真剣に取り向くような方なら、色々と思う事があります。しかし、そうでない人がプレイすることはあまり推奨しません。まぁ、雨が降り続ける街の雰囲気と音楽で充分魅力はあると思いますが・・・私には文章力がありませんので、こちらをご参照を・・・
 

 正直なことを言ってこの作品の具体的に。言えと言われると困ります。上記や過去に書いた記述も窮してどうにか書いたのであって、特徴を的確に表現しきれているとは思いません。「デリケートな作品」と書いたこともありますが、本当にそう思います。作品の構成自体が、非常に絶妙なバランスでなされており、本編中にここでユーザーにこうさせようという演出を抑え話は淡々と進み、印象的な名台詞があるわけでもない、テキストが緻密な心理描写があるわけではありません。それでもストーリーやテキストの何気ない一文に、登場人物の深い情念がそれが押さえぎみに込められていています。そのような作品だからこそ、プレイしたユーザーごとにそれぞれの『S=R』像があることでしょう。それをす余地がこの作品に秘められていて、製作者側もそれを意識している作っています。それらのことを的確に表現したのが、岡崎さんの作った歌の数々でしょう。感動ではない違った思いが、心を揺さぶります。
 最後にこの作品の肝であった音楽を担当した故岡崎律子さんのご冥福を心よりお祈りします。作品中にある「I'm always close to you」は自分の死期を悟った詩のようで興味深いです。





以下ネタバレ感想に続く(以下反転)


 ふー本当にネタバレなしで書くとストレスが溜まりますね。補助線はヒロインにあたる4人がそれぞれ対になり2対の物語として影響しあっている点です。「いかさまコイン」にてそれが刻銘に解明されてます。アルとトルタが双子であると同様に、残りのファルとリセもある意味双子のような存在です。ですので、対になるキャラを同時に書いていこうと思います。
 

ファル&リセ

 本編ではリセシナリオにファルが介入してくる点と同じ孤児院出身だけで、2人をセットに結びつける考えに至りませんでした。孤児院という共通性はあるもの今の立場が違いがあり、2人がお互いどんなやり取りをする想像はしませんでした。それが「いかさまコイン」でガラリと変わります。2人中心の物語により2人の関係性が解り、またファルへの評価も変わりました。
 2人は場所は違えども孤児院で育った。それは愛情を与える人間がいないと同時に愛情を向ける相手がいないと同義です。いくらどんな立派な孤児院といえどもそれは変わりません。親は子供にとって庇護される対象と同時に、愛情を独占する相手でもあります。どんな立派な孤児院でも孤児は複数。そうそう1人に愛情を向けられることはありません。中には立派な方がいますが、それでも大勢の中の1人に過ぎません。その方を独占することはできません。孤児や親を早く亡くした人が、早婚なケースが多いのも、愛情が飢えてそれを向ける相手、反対に愛情を向けられる相手の関係性として家庭を作っていると考えてます。逆に愛情が怖くなると場合がありますね。『遙に〜』がその典型です。
 リセはまだ比較的環境良い孤児院で育ちましたが、ファルは字も教えられなかったような劣悪な環境。リセがそれほど愛情に飢えているように見えないのに比べ、ファルは自力でその環境から逃れようと努力します。それは、自分の育った境遇への憎悪。同時に愛情に飢えた代償行為と言えるでしょう。それが証拠に、アーシノへ現場を見せつけ鬱憤を晴らすのを同時に、クリスに本当に自分を見て知って受け入れて貰いたかった。実際彼女自身が言ってますが、クリスを音楽のパートナーにする方便だけではないことは明らかです。パートナーにするだけなら、得意の鉄火面をしていればできたでしょう。それなのにわざわざそれをばらす必要性は感じません。彼女のEDの使われている「メロディー」から「言えなかった言葉」「祈りを込めて」からクリスへの謝罪が感じられます。トルタ視点から彼のパートナーになるならアルのことを話すと約束していたので、エピローグの時には既に知っていたのでしょう。クリスのもっと「カナシミ」を植え付ける為にアルの現状を見せつけたことでしょう。矛盾した行動ですが、彼女なりの愛情表現なのでしょう。世渡りが上手いのにそういう行動は人一倍不器用なのでしょう。それを考えるとただの黒ヒロインとは言えないです。


 フォルテーノの名門に引き取られたリセと自分の力だけでのし上がったファルの立場。それを別けたのはただ一つフォルテールを弾く魔力があるかどうか、それだけです。リセは受動的に、ファルは能動的に今の立場を築き上げたとも言えます。ただの天性の素質、運だけでのうのうとしているリセに嫉妬するファル。また、リセがファルが尊敬していることに、神経を逆立てにする。自分が努力だけでなく、処世術や世の中への対抗心で汚い感情をもって今の地位にいる。自分は汚い存在だけど、リセは純真無垢なまま。そこには羨望と嫉妬心が渦巻いているでしょう。なぜ私だけがと。もしかしたらファルは、リセがフォルテールよりも、歌に惹かれているのも何処かで知ったのかもしれません。同じ孤児の立場だからこそ反発心が起こります。巷にはファルがリセの悪評を流したといわれてますが、微妙かなと思います。リセはフォールテーノの名門出身で何かと優遇されている。また、リセの性格の非社交的な性格が拍車をかける。リセの態度を見て悪意を持っている人間はお高くになっていると誤解する。他の誰かが悪評を流しても可笑しくありません。ただファルがその悪評を上手く利用したのかもしれません。どちらにしろ同じですがw 
 そんなファルとリセの2人を別けたもの。それはフォルテールが弾ける、魔力が生まれながらあるかそれだけ。同じ孤児出身だけどそれは大きな壁。それを決めたのは神様の気まぐれ。まさに「コインの裏表」のような関係。近いようで遠い存在。もし反対ならどうでしょう。ファルは一生懸命努力して実力のある演奏家になるでしょうが、人間形成に問題があったファルが心を打つ超一流に慣れたかどうか?リセは歌が歌えるだけで満足で、平凡な人生を歩んだことでしょう。どちらが彼女たちにとって幸せがどうか?


 リセシナリオは、歌を歌うという夢がある。でもフォルテールの名門に引き取られた責務があり、壁として立ちはだかる。一見するとどこにでもある普通のテーマで、当然のように主人公はヒロインの夢を応援する。この作品もクリスは、リセの歌に惹かれ応援する。世間のしがらみとかそのようなものは、不要で邪魔なものだと若い考え。でもそのようなしがらみがあるからこそ世界は成り立っている。勿論社会的に見てもわるい「しがらみ」は存在しますが・・・クリスがリセを応援することで逆に彼女を追い詰めることになる皮肉。他の作品ならそれでも「夢」に向かってという結末になりますが、この作品はそんなに甘くありません。リセを完全に追い詰め放逐します。あまり意識しませんでしたが、ファルシナリオはリセシナリオのアンチテーゼの意味合いがあったのですね。本当に歌を歌いたいなら、他人の力を借りず、家を飛び出してもそれをするべきだと。他のヒロインと異なり僅かながら希望が残されたのは、唯一の救いです。


 次にファルシナリオ。最悪の状態から独力で音楽の名門校の特待生になり生徒会長まで上り詰めた。だが内面は、自分が上り詰める為ならどんなことでもする。出世の為なら人を欺き利用しまた利用されることを厭わない。それだけでなく非常に努力し生活の為に歌の練習を削ってもバイトもする。それは自分の境遇から抜け出す為のある種の意地であり反抗心であり、孤児としての愛情の代償行為。梅原猛氏が「偉大な事業をしたものは、心に傷を負っている。それを慰めるために偉大なことをした。」と書いてましたがまさにその通りですね。外面的には自分を磨き周りを貢献する非常に立派な行為をしてます。動機が良いなら自然と結果も良いだろうと考える、単純過ぎる日本人には理解しにくいことですね。
 完璧に歌いこなすが何かが足りないそれは自分が今の自分になる為に置き捨てたもの。「感情」という人間に一番大切なもの。美しいものを素直に美しいものと思う心。楽しいことを楽しいと思う心。そして、悲しい時悲しいと思う心。努力だけでは今の地位には辿り着けなかったでしょう。時に権謀術をようさないと駄目なこともあるでしょう。そのように素直に感情表現をすること。リセシナリオでグラーヴェの講義で、フォルテールは感情に大きく左右されると言ってましたが、他の物でも同じ事でしょう。作曲家はイメージしたものを譜面に写しただけ、全てを譜面で表現してるわけではない。譜面をよく見、作曲家の意図を考え自分なりにアレンジする。そのためには作曲家の「感情」を理解しなければならない。ここはこれだからゆったりと楽しげにとか。その前提に自分の「感情」を表現したり、理解しなければそのような作業はできないでしょう。自分が理解できないのに他人が理解できるわけがありません。ファルには音楽家としての一番の素質が欠落していた。いくら技術が凄くて楽譜通りに歌っても「魂」が入ってなければ、人を感動できません。人は創作作品の込められた「魂」で感動するのですから・・・不要と思って捨てた部分が一番大切で捨てなければ今の地位に上りつけなかった矛盾。何か別の方法はなかったのかと思います。


 トルタ&アル
 世に双子を扱った作品は、多いですがトリック性が主で精神的に追求していく話は少ないです。少し聞きかじったことですが、昔の少女漫画にそのようなことを扱ったものがあるそうです。双子である故に自分が一体誰なのか、解らなくなり疲弊していく話だったと思います。
 私にも何組か双子の友達がいます。非常に似通っていって「何々兄弟」とひとくくりにされてますが、深く付き合ってみると、微妙な違いがあり判別できます。部活等は違いますが、片一方と遊びの約束をするともう一人が付いて来たりします。双子とのことを深く聞いたことはないですが、双子であることのある種の連帯感と深い理解と、双子ということでひとくくりにされて1人の人間として見られる反発心など矛盾した感情が鬱積しているのだろうかと思います。


 本題に戻り『S=R』は、双子としてのトリック性も使っていますが、精神的なことも深く掘り下げています。双子、特に一卵性双生児は、同じ遺伝子を共有しています。同じ時に生まれ、生命の設計図である遺伝子も同じ、育った環境も同じ。いわばもう1人の自分。全く同じである双子の特有の絆が築き上げられてます。また自分ではないのに自分がいる感覚。他者性を失い自分を見失いがちになります。周りも双子と一対で扱う。当然それには反発心が湧く。自分は自分だと。どうにか違いを見出そうと、四苦八苦する。また、同じ双子になのにあっちは出来て、こちらは出来ないんだと言われる。一方で自分ではないが自分を映し出す鏡。良い面も悪い面も客観的に自分を見ることが出来る。それは自分の悪い面を残酷なほど叙実に映し出す。双子の心境は、非常に矛盾した感情が渦巻いていることでしょう。


 トルタシナリオで自分で言った「自然に役割を別けていたが、別個になった現在ではそれも必要がなくなり、アルが演じてた部分も出ているのではないか」が印象的ですね。双子として意識して別個の存在として意識していたトルタが、本来の自分を取り戻していく。クリスがアルを選んだのもアルの方が弱いと感じたから。トルタも「自分の役割」を演じていたのなら、アルも同じかもしれない。だったら2人の「境界線」は無くなり、根本は一緒。クリスが好き、双子の相方ももちろん大事、けれどクリスが選んだ以上、意識不明である以上相方の幸せも考え、自分の感情を抑え相手にクリスを託そうとする。だけどクリスのことが忘れられない。そんな矛盾した感情を3年近くもお互い抱えこんでいました。3年間の学校生活を終われば、クリスが故郷に帰り何もかもが明らかになる。それはほっと肩の荷が下ろされるとともに、真実を知ってこれから起きる事が怖い。タイムリミットは僅かだけ。


 トルタに行きましょう。メインヒロインにて回答編の真トルタシナリオでは、彼女を通して語られます。ですので、主人公よりも重要度が高いヒロインです。それだけこの作品の典型的な登場人物といっても過言ではないでしょう。ある3人組の男女の幼馴染がいた。音楽を始めた。音楽は各自それぞれの道を歩んでいくことになる。クリスはフォルテールを弾く魔力を見出し、トルタは声楽家として頭角を現していく、一方アルは自分の才能に限界を感じ辞めてしまった。年頃になりクリスはアルを恋の相手として選ぶことになる。幼馴染。幼馴染から恋愛関係に至るものは、多数作品がある。
 いつも子供の頃からいた。そのため相手に「好意」を抱くは、当たり前。でもそれは概して兄弟でも普通の男女でもない「曖昧な感情」。「兄弟」としての「好意」が強くて恋愛関係に至らないこともしばしば。トルタとアル。クリスは2人とも「女性」として意識したようだが、「弱い」部分があるアルを選んだ。それは「女性」としての強く感じる「弱さ」に繋がる部分だろうと思う。双子の役割として「強さ」「弱さ」を演じていた双子には皮肉。トルタにもトルタとしての「弱さ」があるが、それを若さが故にクリスの見れなかった見識の甘さ、あるいはトルタの「弱さ」を感じながら、表面的な「弱さ」のアルを選んだのか?
 一般的に女の方が心身ともに成長する早い。双子はクリスが2人を異性として意識する前に、クリスに「女」として好きであった。それは言葉には出さないだろうけど、2人とも自分、そして相手が好きだろうと感じることは意識していた。クリスも好きだけど、相手も大事というジレンマはクリスがアルが選んだ後も続く。
 また逆に音楽では、クリスとトルタの距離は近くなる。まるで「音楽」と「恋」のそれぞれの領分があるように・・・そんな微妙なバランスで日常の日々を歩んでいった。

  
 学校を卒業してそれぞれの進路を選ぶ時に、変化が訪れる。自分の道を進むために離れるトルタとクリス。故郷に留まり就職するアル。それは大人になる為の通過儀礼の1つ。2人が旅立つ直前に不幸な事故が起きる。アルは意識不明の状態、クリスは事故の記憶を失い暮らすことになった街に自分しか見えない雨を感じることになる。それは意識不明に事故の「悲しみ」を引きづり、人との接触を狭め消極的な態度になる。クリスにしか見えない雨を見て隔絶した距離感を感じることになる。2人を同時に失ったトルタ。クリスの「秘密」を取り繕うとして奔走することになり、それが生活の中心になる。「ココロに秘密の場所」を持ち、「かなしみ」があって「イエナイナミダ」がある。
 クリスのために他の物を切り捨てる。女性にしか出来ないものでしょう。この真トルタシナリオは、庇護するのがヒロイン、されるのが主人公という逆転の現象が起きます。クリスを庇護するトルタだが、親たちに託された責任感にクリスへの愛情の他に、自分に振り向かそうとする打算があります。クリスに真実を背けその為に嘘を嘘を重ねるトルタ。嘘を付き過ぎて身動きが出来ない所まで追い詰められる。真実から遠ざける為に計算高く、巧妙になろうとする。クリスへの恋愛感情を表し、周りから遠ざけようとする。前半にアーシノとファルとの対決があるが、アーシノの本質を見抜き無害だと確信したが、百錬練磨のファルには押し切られる形となる。所詮トルタは平凡な少女に過ぎない。彼女にはこの重責は重すぎた。
 アルになりすまし手紙を書いたり、実際にアルになりすまし会うトルタ。嘘に塗り固められたけど、真実も多分に含まれている。「私はクリスが好き」それはトルタの偽らず気持ち。アルになりすまし本当の気持ちを出しているが、それはアルとしての自分。トルタに向けられたものではなくアルに向けられたもの。悲しみと共に諦観。そして嘘を付く罪悪感の他に自分の中にある汚い感情も感じている。アルを演じて自分に向かそうとしたり、アルと別れさそうとも思うときもある。大きな距離感を感じながら、アルとなってほぼクリスを独占している喜び。アルになりすましクリスにトルタと呼ばれてこみ上げた感情。
 

 どんなに人を欺いてもトルタは平凡な少女にすぎない。ファルのように世間を欺き利用する開き直りはできない。1人の恋する少女であり、自分の姉と付き合っても捨てきれない想い。その双子の姉は、物言わず姿に成り果てた。クリスを助けようとする気持ち、姉を想う気持ち、その姉からクリスを奪おうと自分の汚い感情どれも等しく自分から生まれたもの。どれも本当で偽らない気持ち。それは平凡な等身大の人間にある感情。だからこそ感情移入し心を打つ。
 

 エンディングは2つ用意されてます。アルになりすましクリスの様子を見、以前のようにアルの姿でも再びトルタと呼んでくれるかどうかとクリスを試そうとします。出発する直前に祖母のニンナに指摘されます。「それはクリスにもトルタにも誰の為にもならない」それを受けてトルタの姿で真実をクリスに打ち明けます。アルが死んだ時ホッとしている語っていますが、自分の重責がなくなった安堵からきているのでしょう。涙が出ないのは、今まで物を言わずに寝たきりで存在的に既に死んでいたこと。人間あまりも悲しみが大きいと現実が受け止めらなくて素直に泣けない。トルタにとってはアルはもう1人の自分。これほど大きな存在だった証でもあるでしょう。
 一方試すようなことをするとトルタも好きだがアルも大事とクリスの偽らない気持ちを感じ身を引こうとする。自分はクリスにとって特別な存在になり独占したかった。こちらのエンドの方が納得でき、綺麗な終わり方で好きです。グットエンドは、ニンナが言う通り自分の偽らず、気持ちをぶつけることが最善であります。トルタにとって一番必要なことだった。でも罪を重ねてきたトルタにはその資格がないと思い込み、袋小路に陥る。『TALKtoTALK』のヒロイン素直が言っていた「正しい判断ができるほど、私は勇気をもっていない」は本質を言い当てた名言だと思います。世間においても自分自身においても、本当に正しいと思うことはなかなかできない。世間のしがらみや自分の殻から飛び出そうとする勇気が必要です。まだ少女であるトルタが正しいことをする勇気がないことも仕方がないことで、自然なことだと思います。
 トルタは自分の中で消化してまうヒロインなので客観的に書くことは、非常に難しいですね。それに話の根幹にいる人物なので書くのが非常に難しいです。


 フォーニシナリオは、一般的には鬱EDの嵐の中の救済シナリオと見方が一般的なようですね。私は少し見解が異なります。その意味合いも多分にありますが、アルの心情を描きたかったのかと考えています。事故に遭い意識不明になったが、その意識は歌の妖精フォーニとして受け継げられることになる。フォーニは、アルの理想像ではないかと思います。人の顔色を見て生活して、歌が下手でクリスと付き合いながら音楽という共有する世界に入れないもどかしさ。そのような自分から開放された姿がフォーニではないかと思います。天真爛漫で歌が上手く毎週アンサンブルができ、クリスと同じ世界にいる楽しさ。フォーニがアンサンブルに拘った理由もそこにあるのではと想像していています。
 だが制約も多い。クリスしか認識できないことと普通の妖精のように自由に飛び回ることができない。前者はクリスだけ見てくれれば良いと無意識の感情もあるかもしれない。後者は、アルが妙に印象に残っていた飛べない妖精の話を連想します。あれも解釈が難しいのですが、最後のシーンで谷に飛び込む自殺的な行為は、どんな形でも存在を残したかった。飛べない自分の最後の意地であり、心の奥底で諦めがあるのだろうと思います。


 諦観。アルにとってはキーワードでありましょう。音楽を諦めた自分と飛べない妖精の話を重ね合わして読んでいたアル。歌は多くの人前でやるものですから性格も影響しますが、素質的にはトルタと同じですから本気でやればできなくはない。でも諦めた。フォーニが空を自由に飛べない理由も、歌を諦めた無意識の現象でもあり、もうアルに戻ってクリスに愛されないと感じてる諦観の象徴でもあるでしょう。
 フォーニとして明日と知れず日々をクリスと過ごし、自分の事故を忘れ幻の雨をみるクリス。偽りの自分の手紙を心の支えとしているクリスを見つめるアルの心情はどうなのか?アルとして愛されるのを諦め、誰かクリスを託そうとする。それが本当にクリスを愛してるトルタならいうことはない。
 でもクリスを忘れられない。どうにか真実を思い出して。矛盾した想いがめまぐるしく駆け巡る。そんな想いが通じパートナーとして舞台に立つクリス。戸惑いながら幸福に打ち震える。そして奇跡が起き、大団円。相変わらず歌は下手なようだけど、それはクリスへのオア前の部分も含まれるのかと思います。

 
 思いつつまま書き綴って行き、整理されてないと思います。読んだ方はご苦労様です。自分の思いの片鱗でも解って頂ければ幸いです。こんな長くなるとは、他の3作品は短く整理したいですね。まぁあまり過剰に期待せずに・・・ではでは