結果と動機

 ふとネットサーフィーンをしていたらこのようなHPが、理系の方ですが文系の私にも同じ考えですね。これを読んでふと思ったのは


どんなに悪い事例とされていることでも、それがはじめられたそもそもの動機は、善意によったものであった。


 社会科学とりわけ歴史の学問をしていると、よくこの言葉が頭をよぎります。どのような事件や当時構築したシステムは、それを起こした「当人にとって」は「善意」によるものだった。それが社会変化やそのシステムを守る為に手段が目的化した為に、システム不良を起こす。歴史を学んでいると往々としてそのような事例が起こります。よくマスコミでここ10年近くを「失われた十年」と言われてます。いわゆる「日本株式会社」と揶揄されたシステムも日本に良かれと思って構築され当初はよく機能し、一時には「Japan as No.1」言われていました。
 しかし社会変化に対応できなくなり、政治家の構想力、決断力、行動力の欠如、官僚の前例主義にそれに生じた既得権益の保護により変革を求められました。だがみんな改革、改革とお題目のように言ってましたが、結局は何も出来ない、若しくはやっても意味がなかった。所詮人間は、保守的な動物です。失業しようが餓死者が大量発生しない限り、急激な変化を好みません。既得権益と見える形でその恩恵を受けている人間の方が、社会的な立場が上のせいもありますが、改革によって恩恵を受ける利益が目に見えない形なのでなかなか一般的に受け入れにくい。それをどうビジョンを見せて、納得させるかが政治家ですが、そこまでの力量の方は輩出されてませんね。小泉前首相は、既得権益を奪ったが彼もそれが出来なかったです。そもそもそれを納得させるような手法は取りませんがw
 よく「後世の歴史家に評価に任せる」と言いますが、その歴史家もその当時の環境に左右されて、客観的な評価をなかなかできません。結局はその事例、人物が後世のどこまで「結果」を残したのかより客観的な評価なのでしょう。
 いわゆる先の戦争を「侵略戦争」として批判するか?「アジアを始め植民地を解放した戦争」「止む得ずやった自衛戦争」として評価するか?どっちも間違いであり、正解であります。前者の立場に立てば客観的に見れば正しいのですが、当時は「侵略戦争」は当たり前でした。「正義の使者」であった米英も植民地を所有していて、日本に植民地された地域の開放とのたまっても当の自分も経営しているようでは、所詮植民地というパイの取り合いに過ぎません。それに現在の善悪を当時の善悪に適用しても意味がありません。当時と現在は善悪が異なるのに、他ならぬ神でもない人間が現在の価値判断でする行動できる筈がありません。そこが過去を評価をするポイントの1つでもあります。
 後者に関しては、上層部はただの大義名分だった側面が強いですが、現場の人間は本気で戦った方々も少なくなりません。それが証拠に日本兵が残って独立の協力した例もあります。上層部はABCD包囲網を始め米英にはめられて止む得ずやった背景もあるし、世論は戦争やるべし弱腰政府がと無責任に煽ったことが政府の決断に少なからず影響されています。当時も世論やマスコミは無責任ですねw近代において初めて有色人種が白人に勝った日露戦争とともに、先の戦争が前後の一斉の植民地の独立運動に少なからず影響を与えたことは否定できません。その点においては、正しかったとも言えます。
 

 このように歴史の視点を少し変えるだけで事実は変わらずに、「解釈」が変わります。他の物事も同じで近視眼的に見ればそう見えても、大局的に見ると大きく変わる例が多々あります。それに往々にして日本人は、動機を非常に重要視します。だが普通に考えて大体のことは、「悪意」を持って行動せずに「善意」で行動してます。それが他人や多民族にとって「善意」がどうかは、別の話・・・中国に「猿猴月を取る」という故事があります。猿の王様が良かれと思って水面に写った月を取ろうとして、部下と一緒にやろうとするが結局全員溺死する。非常に皮肉を持った故事ですが、日本人が忌み嫌うものの1つでしょうね。まぁ、そんなに物事の見方や評価など簡単ではないではありませんね。