境界線

 世の中には「おたく」と呼ばれる方々がいます。この私も世間から見れば、おそらくそう見えるのでしょう。ただ自分的には少し外れているとは思ってますが、私の自意識の問題なのでしょうか?
 簡単に「おたく」と言いますがその言葉の定義とは何でしょう?言葉とはそのしゃべる人間とそれを聞く人間では、その意味に微妙な齟齬が生じます。それは別個の人間だからこそ仕方がないこと。人が持つ意識がそれぞれ異なる以上、1つの言葉から異なるニュアンスを感じます。それがコミュニケーションが難しい所です。意図していた意味を受け手は、それぞれ別個の自分自身のフィルターを通じて「意味」を取ります。ある人間が発した「情報」は、発信者の意図に反して「鈍化」して受け手に流れます。鈍化がある以上、正確な意図を伝えることは絶望的といえるでしょう。ただより正確に情報の鈍化を防ぐ為に、より簡潔で一般的な言葉を使うことでしょう。それで齟齬を埋める為に積極的に疑問が在ったら問い掛けることが大切です。怖いのはネットですね。言葉だけで顔の見えない世界。どうしても齟齬が大きくなるのも仕方がないことです。

 
 「文章は、用いる言葉の選択で決まる。日常使われない言葉や仲間うちででしか通用しない表現は、船が暗礁が避けるのと同じで避けなければならない」(カエサル

 
 さて、「おたく」とは何でしょう?自分は狭義では二次元の創作物に何らかの執着をしている人間たち。広義ではその人自身に仕事や生活に無駄な事に執着し、その行為が比較的にインドアで知識や収集などを含むそのような人々だと考えています。こうして眺めてみますと研究者やマニアとの境界線は曖昧に思えてきます。それが証拠に、自分の実益を含まない人間が社会を発展したといっても過言ではないでしょう。江戸時代伊能忠敬の日本地図の作成、杉田玄白前野良沢蘭学の研究、関孝和などによって和算が独自に発達。微分積分などの発見などはもしかしたら西洋より先んじた可能性すらあります。このように家業や実益に発展しない物を追及していた伝統があります。黒船襲来の時西国の外様大名薩摩藩島津斉彬佐賀藩鍋島直正宇和島藩伊達宗城の3人が、黒船を作る競争をしようとし、本当に作ってしまいました。
 このように欧米以外で何故日本だけが先進国なのか?というという問い掛けがあります。このような一見無駄に見える方々と黙々と技術を学んで、研鑚していていた方々の絶え間ない努力があります。また商業流通では室町に既に為替制度が成立。大坂商人先物取引を発明したりした積み重ねの伝統が原因だと思います。
 今中国が「世界の工場」として急速に成長しています。ただ中国にはそのような伝統はありませんので、独自の技術を磨くのは選ばれたエリートのみになるでしょう。かつて江戸時代日本が庶民が算術をして競い合ったなどの伝統はありません。大企業を支える日本の中小企業の高度な技術力を持つような底辺の発展はありえないを考えています。
 後は自分さえよければ良いとモラルの欠如でしょう。知り合いが出張で中国にいった所、ふとトイレに行ったら自分の持ち物が無くなっていて結局半分近く無くなってしまったそうです。生活が苦しいとはいえ飢餓するような追い詰められたものではありません。生活水準の向上で少なくなるとはいえ、このような生き馬の目を抜なくなるような環境は変わらないでしょう。一方日本は戦後の混乱期を除きごく一般の人間のモラルは高いです。その根底にはそのような行為を恥とする伝統や世間の目というものがあります。最近はモラルが酷くなっていってますが、果たしてそこまで行くか疑問ではあります。